新医協と保健師部会
「全国保健師活動研究会」という行政で働く保健師が立ち上げた会があります。菊地頌子保健師から報告いただきましたので、ご紹介いたします。
50回目を迎えた 全国保健師活動研究会のあゆみ
厚生省が保健所の設置基準を10万人に1ヵ所から100万人にする<基幹保健所構想>を1968年に発表、「土曜会(保健婦の自主サークル、1952年発足)」の公開講座に参加していた保健婦達が危機感を抱き、各地の実態をつかもうと1969年に発足したのが「自治体に働く保健婦のつどい」です。ガリ版刷りの呼びかけで、雪のちらつく名古屋に46名の保健婦が集まり、夜を徹して話し合い、助言者の久保全雄先生(当時 新医協幹事長)から「君達は、住民、住民と言うが保健婦の労働条件はどうなの」と指摘を受けました。
2回目以降は毎年事業の少ない1月を開催日とし、開催地に実行委員会を組織して4回目まで名古屋で開催。毎回開催日に向け抄録集を、終了後には報告集を発行。報告集は医学書院の『保健婦雑誌』が3回と5回の集会の内容の一部を掲載、11~20回目は毎回特集を組み全内容を掲載、抄録集と報告集の各々49冊は、国の公衆衛生施策や自治体の保健事業の変化に、悩み苦しむ保健婦の声が語られ、自治体を超えた連帯が生まれたことが記録されています。
年々参加者が倍増したため、4回目には世話人から運営委員体制に切り替え組織を強化、山本裕子姉を委員長とし、集会をスローガンに「住民とともにあゆむ保健婦活動をめざして」「活動の実践をとおして理論化を」を決定しました。理論化より技術化ではないかの意見も出ましたが、保健婦活動=技術の考え方には殆どが批判的でした。
5~6回は京都で開催。5回目からはつどい名物になる「開催日ニュース速報(2日間で5~6号)」を実行委員が発行、「ニュース速報」は現在も継続されています。6回目は蜷川京都府知事が「保健婦は憲法を暮らしの中に生かす、第一線の公務労働者である」と挨拶、参加者650名全員にポケットサイズの『日本国憲法』の冊子のプレゼントがありました。ゆるぎない保健婦の立ち位置を示した知事の言葉は心に響きました。
7~10回は東京多摩地区の読売ランド会館で開催、8回目からは保育室を開きましたが、乳児を背負って母乳を飲ませながら参加する保健婦もありました。最近子連れで参加する保健師がなくなり49回目から開設を止めています。8回目の1976年(S51)には中国四国地区のつどいが発足、翌年には関東甲信越、北海道、その後東海、東北、近畿、九州、北陸のブロックや、新潟、静岡、千葉、秋田、山形、長崎、大分、沖縄等々県別も開催されるようになりました。しかし、各地のサークル活動が弱体化し「つどい」が継続せず、今継続開催しているのは東北、関東甲信越、新潟などになりました。
15回目には記念事業として、医学書院から保健婦活動の実践の書『公衆衛生実践シリーズ』(全11巻)の発行に取り組み、小栗史朗、山本 繁、丸山 創、中澤正夫、上畑鉄之丞などの新医協の先生に全面的なご協力をいただきました。11回目からは機関紙『いのちくらし』を年3~4回発行(1979年7月1号~2017年3月296号)。
23回目には会則をつくって会員制とし、1998年の34回目には公費出張の参加者の希望で名称を「自治体に働く保健師のつどい」から「全国保健師活動研究会」に改称、運営委員会は会員による3年毎の選挙とする会則や規則などの改正・設備を行いました。30回目からは機関誌『公衆衛生ジャーナルさるす』(雑誌1988年~2005年29号迄、やどかり出版)の発行を開始、その後2004年からは『PHNブックレット』(萌文社)に変え、2017年まで19号発行しています。以上の他、先輩の実践から学ぶ個人史『予防活動に生きるシリーズ』(4冊)や、保健所・保健婦問題の『資料集』(7冊)、資料パンフ、25、40回記念誌、故人の追悼集を発行しています。
33回目の2001年7月には、会員が中心になって資金集めを行い、長野県安曇野市に『保健婦資料館』を建設、NPO法人公衆衛生看護研究所を立ち上げ、東日本大震災発生時の2011年11月には、殉死した9名の保健師の慰霊碑『保健師の像』を建設しました。阪神淡路大震災以降の、新潟中越地震や東日本大震災には、会として現地支援の保健師を派遣、熊本地震や水害などの支援、原発事故後の福島の保健師との交流なども行っています。
40回目以後の研究会は、会員が徐々に減少し(最高時は2003年の約750名、現在は約450名)、研究集会参加者も現在は400名程度(最高時は20回の1226名)になっています。理由は会員の高齢化と若者の組織ばなれ(日本看護協会の保健師の加入率も5割以下)と思います。最近、集会参加者の3分の2近くが非会員の割には、新入会員は少数です。
しかし、現在の保健所数は統廃合でほぼ半減化、保健事業の民間委託の進行や、保健師の分散配置による地区活動の減少等々、保健師を巡る状況は会の発足当初よりむしろ厳しく、私達が「今こそ結集を!」と叫ばないと、保健師の存在も危うくなると考えています。
50年のあゆみを振り返ると、自主研究団体で専従の職員も置かず、50回も継続できたことは不思議なくらいです。しかし50回目を機に、新たな第一歩を踏み出したいと若い保健師達と話し合っています。
保健師 菊地頌子